特集
琉球の文化遺産
〈今号の表紙〉 琉球舞踊に登場する花笠(はながさ)は、鮮やかな紅型の衣装と共に、「これこそ琉球の伝統色」と言える色彩だ。燦々と輝く太陽の下で美しい海が輝き、南国の花々が咲き乱れる…そんな平和な琉球国の風景をそのまま表したような色だ。撮影:仲程長治
沖縄の生活の中に今も息づく琉球文化
かつて王国として栄えた琉球ゆかりの文化は、島の風土と歴史の中で育まれてきました。食から芸能まで多岐に渡るこれらの文化は、私自身の生活を振りかえってみても、今もしっかり島の生活に根付いていると感じます。
たとえば、正月料理として王宮で振る舞われていた田芋の唐揚げを食べたり、親戚が集まるお祝いの席で古酒を飲んだり。学生時代の先生が三線の著名な演奏家だったこともあります。また、小学校の図工の授業で紅型を作ったり、体育の授業で空手を習ったり、課外学習で組踊を観賞したりすることは、沖縄の子どもならば誰でも経験することです。教育の場面でも琉球の文化を自然に学ぶ機会が取り入れられており、家庭での年中行事と共に、楽しみながら大切な文化を継承していく土壌があることを嬉しく思います。
今も沖縄の人たちの心の中に強くある「訪れる人をもてなしたい」「相手を楽しませたい」という想い。そのルーツと言える、おもてなしの心から生まれた琉球の文化遺産をご紹介します。
代表取締役 名護 健
琉球料理
琉球王国時代に国賓へのおもてなし料理として生まれた琉球料理は、明治時代以降に一般家庭にも広がり、沖縄の伝統的な食文化として発展、地域の行事料理や各家庭の味として今も脈々と受け継がれています。
原点はおもてなしの「宮廷料理」
1429年から450年間に渡り、琉球王国と呼ばれる独立国であった沖縄。 日本と中国の文化の影響を色濃く受けながら独自の発展を遂げたその文化は、中国皇帝から派遣される使節団をもてなすための宴席で生まれました。
その一つである「琉球料理」は、首里城の王宮で行われる行事や儀式のための料理や、宴席で振る舞われたウトゥイムチ(沖縄の言葉で「おもてなし」の意味)の宮廷料理として発展しました。亜熱帯の風土が育む野菜や魚介などの食材と、沖縄の地理的、歴史的な背景から交易によってもたらされた昆布などの外来食材とを巧みに組み合わせて、調理技術や作法を洗練させた料理は、やがて宮廷から上流階級、一般家庭へと広がり、沖縄の食文化の基盤となりました。
伝統的な琉球料理には、中国から伝わった、日々の食事も医学的な治療と同じであることを示す「医食同源」の思想が息づいていることも大きな特徴の一つです。
東道盆は琉球漆器の代表的な器で、上から見ると六角形をしており、宴の席などで冷めても味が変わらない上質な酒の肴を小皿に盛りつけて、客人たちに振る舞われていました。
沖縄の食文化の特徴
泡盛
泡盛は米で造った蒸留酒で、黒麹菌を用いた沖縄独特のお酒です。琉球王国時代、国賓をもてなす宴の席で泡盛が振る舞われ、江戸幕府への献上品になるなど、外交には欠かせない貴重な品でした。
王府の御用酒から万人の島酒に
泡盛は、18世紀末頃に交易が盛んであった中国から、シャム(現在のタイ)を経由して琉球に伝わったと言われています。その理由は、味と香りがタイのお酒、ラオロンに似ているからです。名前の由来は、泡立ちで度数を計っていたという説、タイ米ではなく粟で造られていた説など諸説あります。
17世紀、泡盛の製造は首里王府の厳しい管理の元で行われており、当時は首里城下の3つの地域だけが酒造りを許可されていました。造られた泡盛は首里城内にある「銭蔵」という施設で保管され、主に接待用として振る舞われていました。また、泡盛は酒として味わうだけでなく、琉球料理に風味を加える調味料や薬用酒としても重宝され、海外交易や幕府への献上品としても必ず納められる、一般庶民には憧れの酒でした。
明治時代に琉球が沖縄県になると酒造りは免許制となり、現在は沖縄の島酒として、県民をはじめ多くの人たちに親しまれています。
泡盛は、素焼きの甕(かめ)で長く寝かせて熟成させることで風味が増し、丸みを帯びていきます。3年以上寝かせた泡盛は古酒と呼ばれ、深く芳醇な味わいが高く評価されて、近年では海外でも人気を集めています。
泡盛ができるまで
琉球の芸能
中国皇帝からの使節団をもてなすために開かれた宴の席では、色彩豊かな紅型衣装をまとった琉球舞踊や、宮廷芸能として創作された組踊が演じられました。その芸術的な価値は今でも高く評価されています。
今も息づく琉球独自の芸能文化
琉球王国時代、国王が代替わりする度に中国から琉球を訪れていた使節団。その渡来は1404年から1866年の間に22回にも及びました。
約半年に渡って滞在した総勢400人余りの使徒たちをもてなすため、琉球は「踊奉行」という役人が取りしきる宴を催し、「御冠船踊」と呼ばれる舞台で士族やその子弟が三線や舞踊、歌劇などを演じました。
その代表的な演目である「組踊」は琉球独自の芸能で、踊奉行であった玉城朝薫が、琉球の伝説や民話を題材にして能楽の様式など日本の影響を受けながら創作し、1719年に初上演されました。
1879年に琉球王国が消滅した後、芸能を支えていた士族たちは職を失い、その舞台も宮廷から那覇の芝居小屋へと移って、庶民の音楽や風俗を取り入れた芸能として人気を集めます。
さらに、琉球舞踊や組踊は祭りの奉納芸能として沖縄の各地域に伝播して定着し、1972年には組踊が、2009年には琉球舞踊が、国の重要無形文化財に指定されました。
琉球舞踊の代表的な演目「四つ竹」。色鮮やかな花笠を手にした琉装の女性たちが三板(サンバ)という楽器を打ち鳴らしながら踊ります。
組踊は、唱え(セリフ)、音楽、踊りの3つの要素で成り立つ総合芸術で、現代風に言えばミュージカルのような歌舞劇です。2010年にはユネスコの無形文化遺産に登録され、その芸術性は世界的にも高く評価されています。数ある演目の中でも、琉球古来の芸能や伝承を元に創作された玉城朝薫の作品は、今でも人気を集めています。
まだある!今も愛される琉球文化
1879年、日本政府による琉球処分により400年以上続いた琉球王国は幕を閉じました。しかし、琉球で生まれた独特の文化は、沖縄で脈々と受け継がれています。今なお生活の中で楽しまれている、いくつかの琉球文化をご紹介します。
南国らしい鮮やかな色彩と大胆な配色、素朴な絵柄が特徴の紅型。14〜15世紀頃に諸外国との取引で染織技術が琉球にもたらされ、王族や士族の晴れ着、組踊などの舞台衣装として、首里を中心に発展しました。その後、各地にも技術が伝わり、現在は沖縄県の無形文化財、国の重要無形文化財に指定されています。
やちむんとは、沖縄の言葉で焼き物のこと。そのルーツは、海外交易で蒸留酒と一緒に持ち込まれた酒甕であったと言われています。1616年に朝鮮人陶工が窯焼の指導にあたったことから始まり、当時の王が焼物産業を発展させるために陶工を壺屋に集結させたことから「壺屋焼」が誕生、酒器として発展しました。戦後は、読谷村に造られた登り窯の元に工房が集まり、現在は観光スポットとしても人気の「やちむんの里」となりました。
14世紀末、中国の福建から三線の原型といわれる三絃(サンスェン)が琉球に持ち込まれ、当時の王により士族の教養の一つとして学ぶことが勧められ、優れた三線の作り手育成にも力が注がれました。17世紀初めには宮廷楽器として採用された三線は、宮中行事や琉球舞踊、組踊の地謡(伴奏の演奏)にも用いられ、琉球を代表する楽器としての地位を確立。一般にも広く浸透していきました。その音色は、今なお琉球の人々の心の音楽として、古典から民謡まで広く愛され続けています。
琉球は古くから中国漆器の技法を取り入れて、独自の工芸品として漆芸に力を入れていました。中国風の漆器は諸外国への貢ぎ物として喜ばれたため、琉球王府は直営の製作所を運営し、海外からのお客様をもてなす宴席の器としてさらに発展しました。戦後は、アメリカ駐留軍向けのお土産品として人気を集め、美しい朱色と黒漆に代表される伝統的な手法が今も受け継がれています。